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ぼくの浅野選挙総括メモ 投稿者:鹿島拾市 投稿日:2007年5月29日(火)
http://voiceforchange.blog96.fc2.com/ この選挙のひとつのキーワードは「現実」だった。 浅野対石原の闘いの本質は、「(直視されていない)現実」対「(ファシストが「時の流れを止めて見たがる」)夢」の対決だった。石原は「夢」を振りまくことが魅力。「夢」対「現実」という「非対称戦」だからこそ、勝機があった。「新銀行東京」「東京オリンピック」などの敵失の意味は、裏付けのない「夢」が綻びかかったことにある。 これを戦略的総括として考えれば、私たちの選挙の限界は、石原の夢のもとで手ひどく存在を否定された人々との出会い、という起爆剤を得たまではよかったが、そのエネルギーを多数派獲得に振り向けることに失敗したこと、ともいえるし、多数派を揺さぶるような、多数派にかかわる「現実」を暴露し、突きつけることに失敗したことともいえる。 ただし、多数派を出来合いのイメージでとらえるべきではない。先日、勝ち組がチャンスを探す街東京、というイメージを三浦小太郎氏が提起していたが、東京の人口の51%は年収500万以下(内27%が300万以下)である。石原や小泉を支持する低所得層の若者が「構造改革」に「チャンス」を見ているのは確かだが、それは「(雇用の「柔軟化」の恩恵で)中途採用で正社員になれるチャンス」くらいのつつましい話なのだ。いくら地方よりマシといっても、マイナーな現実をひいひい言って生きているのが「多数派」だ。「本当は『多数派』なんて存在しない」とつぶやいてみてもいい。 石原の「夢」の綻びの噴出が、とくにマイノリティに集中する。酷い実害にあうひとが合わない人より少数なのは何でも同じ。太平洋戦争だって、死んだ人より死ななかった人のほうがはるかに多い。要はより多くの人にとってその害が自分に及ぶものとして感じられる場所に陣を敷く、争点を設定するということだ。 「現実」は常に(相対的に)マイナーである。現実の東京には、ゲイもいれば外国人もいる。活気のある繁華街抜きの東京などバカげている。先生が職員会議でものも言えない学校で子供が伸び伸び育つか。こうしたことに目をつぶらなきゃ石原の夢は楽しめない。 教育再生会議に戯画的に現れているように、90年代以降の右へ右への大進撃の果てに、右翼政治は、もはや笑うしかないようなちゃちな夢を語るところまで劣化している。もはやいわゆる「現実主義者」にさえ擁護できないことも多い。やつらの「現実」の基盤は、見かけほど大きくはない。これからますます小さくなるだろう。「王様は裸」なのだ。 「現実」は、私たちの側にある。徹底的に現実に依拠して、やつらの「夢」を撃つ。提示の仕方さえまずくなければ、ここに多数派「をも」獲得するチャンスがある。 提示の仕方、戦略、そうした機能を担える人。各自の視点・経験を持ち寄り、方針を作り出し、共有してゆくコーディネート、全体会議、そうした作風の不在。これが戦術(作戦)レベルでの最大の問題だったのは皆さんの指摘どおり。 以上。 |